研究余話

基礎体温の謎


生気象学研究室 柴田 政章


 「生気象学」というのは聞き慣れない言葉ですが、気象要因の変化が生物にいかなる影響を与えるかについて研究をおこなう専門分野です。ここで、気象要因と言うのは暑さ(赤外線)、寒さ、湿度、気圧(超低周波も含む)、風、紫外線、空気(二酸化炭素、酸素、オゾン)、電磁波および太陽光(全体的な意味での)などです。生物と言うのは原始的な単細胞生物から植物、動物(ヒトを含む)と幅広く意味します。ですから、わかりやすく言えば「生気象学」とは、わたしたちが毎日生活している自然環境と、そこで起こる森羅万象に生き物がいかに関係しているかを追求する学問なのです。このように生気象学というのは実に裾野の広い学問です。今夏、当研究所で開催した1998国際シンポジウム「人類生気象学」はこのうちのヒトに直接かかわってくる分野のみを対象としたもので、私たちは便宜上それを「人類生気象学」と命名しました。それでも発表された内容は、疫学、病理学、生理学、工学、社会学、建築学や気象学など実に多様な分野にわたっています。一見して、「なんとまあ複雑な!」と思われるかもしれませんが、目的はひとつ、「我々が将来、自然環境と調和のとれた共存生活をするうえで、より一層の安全性と快適性を享受するには何をすべきか」であります。私たち生気象学研究室におきましても、このような考えに基づき、研究を進めておりますが、今回は今まで得られた研究成果の一端をご紹介しましょう。

 さて、私たちは「脳はいかにして私たちの基礎体温36.5-37.0℃を作り出しているのか?」を重要なテーマとしています。他のもう一つのより困難なテーマは「なぜ、基礎体温は36.5-37.0℃なのか?」つまり、一体だれがこの温度に決めたのかですが、答えを得るのは現在では非常に困難です。なぜかと申しますと、それは、太古の時代にさかのぼり、非常に原始的な生命がこの地球上にあらわれ、その後の進化の過程で脳の最も重要な部位である「視床下部」と言う領域がいかに発達したかをたどらねばならないからです。そこで、すこし妥協をして、基礎体温は36.5-37.0℃である、と言うところから出発する事にしました。最近、私たちは大脳の少し下にある「中脳」(図1)と言うところに非常に特殊な一群の細胞が存在する事を発見しました(もちろん、世界ではじめてです)。ラットを麻酔して脳定位固定装置というものに乗せて、脳地図にしたがい、0.1 mmの正確さのピンポイントでこの脳細胞群にたどり着き、いろいろな操作をした結果、つぎの事が分かりました。つまり、この脳細胞は体でつくりだす熱量を常日頃おさえこむ事(抑制)で体温を36.5-37.0℃にしている、と考えられるのです。ですから、この脳細胞を興奮させますと熱生産がもっともっと抑制されて基礎体温は下降します。逆に、この脳細胞を眠らせてやると抑制がはずれて熱生産が増加して基礎体温が上昇します(図2)。今までの考えでは、脳には熱生産を増加させる働きをと減少させる働きの2つのセンターがあって、この二つのセンターが互いに調節しながら基礎体温を一定に保っている、と考えられてきました。この考えはコンピューター時代に生きる私たちにとっては理解し易い考え方です。しかし、上で述べたように、私たちの脳はそんなに簡単に、しかも理想的にはつくられてはいないようです。

図1
図1 ヒトの脳
図2
図2 中脳細胞の活動と基礎体温の関係

 私たちは同一の脳細胞が熱生産を増やしたり、減らしたりしていると考えていますし、しかもその脳細胞が体がつくりだす熱量を常日頃おさえこむ事(抑制)で基礎体温をつくっていると考えています。ですから、もしこの脳細胞の働きに支障が起きれば、基礎体温がすぐさま上昇して高体温になってしまい、誠に不都合で危険な事が起きる可能性が出てきます。事実、私たちの健康が害される原因は色々とありますが、その結果として体温が上昇してしまう場合の方が下降してしまう場合よりも遥かに多いのです。たとえば、高体温を生じさせる原因として、脳内出血、感染、麻酔薬、痙攣、内服薬、脳腫瘍等と数が多いのに、体温が下がってしまう場合はほとんど知られてはいません。

 私たちの脳がなぜこのようにつくられてしまったのでしょうか?なぜ脳には熱生産を抑えこむような機能が必要だったのでしょうか?私たちには分かりませんし、だれにも分からないと思いますが、もし、原始的な、しかも簡単な必須アミノ酸が複数結合し、暑い環境下でやがてそれがより複雑な生命体へと進化し、体温調節に重要な働きをする、脳の最も重要な部位である「視床下部」もまだまだではあるが、なんとかうまく進化したと仮定しましょう。一般的には細胞は温度が高くなれば代謝が増加しますから、下手をすれば気温が高いと言う事実だけで生体の体温が上昇し、生命が危険にさらされた、と仮定したらどうでしょう。こんな時、スマートな脳はこの事態に対処すべく熱をつくる器官の働きを抑えこもうとする機能を進化の過程でつくりあげていくのではないでしょうか。皆さんは、どのように憶測、仮定されるでしょうか。それとも、これは永遠の謎なのでしょうか。

(しばた まさあき)


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