研究余話

富士山北麓に見られる環境(森林)と動物相の関係 −蝶類の場合−


動物生態学研究室 北原正彦


 富士山の美しい自然環境を保全し後世に継承していくことは、我々県民の切なる願いであると同時に、責務でもあると考えています。この美しい富士山の自然の保護・保全・継承を考えた時、我々はまず富士山の自然の現況がどうなっているのか、富士山固有の生物多様性の実態はどうなっているのかを詳細に把握し、過去と比較することにより将来を予測していく必要があります。

 現在、動物生態学研究室ではこの目的に沿って、富士山の自然環境と動物相(群集)の関係の解明に取り組んでいます。私はその中でも調査地域を北麓の森林周辺に絞り、また対象も昆虫の蝶類に着目し、それらの生息状況や環境との関係について調査を進めています。蝶類は、我が国では生活史等の博物学的情報がよく整っており、しかも環境の変化に大変敏感であると言われ、環境と動物相の関係を見るには実に好適な生物(環境指標生物)であると言えます。今回は、これまでに解ってきた富士北麓の蝶の生息状況や生態の実態について皆さんにご紹介してみたいと思います。以下に述べますように、富士山のほんの一部に過ぎない北麓地域の蝶相を調べただけでも、幾つかの興味深い事実が解ってきました。

 図1は、環境科学研究所の周辺地域に見られる各々タイプの異なる7つの森林周辺で、1年間(1996年)を通して蝶の成虫個体数をモニタリング調査した結果です。具体的には最低月2回、天気の良い日に各々の森林に出かけ、ルート・センサスという方法を用いて蝶の種類と個体数を漏れが無いように記録した結果です。7つの地区の調査面積は同じですから、図1から森林環境の違いによって蝶の種数や密度が大きく変化するということが解ります。種数・密度共に大きかった北富士演習場北西部にあたる土丸尾の林は広葉樹が主体で、林縁(林のへり)は明るく草地が発達していました。それに対して、種数または密度の小さかった吉田口登山道中ノ茶屋、富士北麓公園、環境科学研究所の林は、林縁部が大変暗かったり、徹底した人為的植生管理が行われていたり、針葉樹が主体であったりしました。

図1
図1 富士北麓の7ヵ所の森林周辺における蝶類群集の総種数と総平均密度(/km)
(1996年実施の個体数モニタリング結果)

 このように、同じように見える森林でもその種類や形態、構造、そして人為的管理形態等の違いにより、そこに生息している蝶の種数や個体数が大きく変動することが解りました。今回の結果を総合すると、少なくとも富士北麓の森林周辺の蝶相の多様性を維持するためには、人為的撹乱(頻繁な草刈や下刈など)が少なく明るい、林縁植生の豊富な落葉広葉樹主体の森林を広い面積にわたって維持・継続していく必要があると言えるでしょう。

 さて、林縁植生の豊富な落葉広葉樹の林はどうして蝶の多様性が高いのでしょうか。その理由の1つとしては、そのような林には蝶の利用資源(餌)が沢山有るからだと考えられます。図2は、横軸に森林ごとの成虫の利用が確認された餌資源の数が示してあります(前述の調査では、森林ごとに成虫が利用していた餌資源(吸蜜植物、樹液、水など)の種類と数も記録しました)。また縦軸は、森林ごとの蝶の総平均密度です。この図より、蝶の沢山見られた森林ほど、その場所で実際に成虫が利用していた餌資源の数も多いことが解ります。蝶類は幼虫も成虫も殆どが餌資源を植物に依存していますので、図中の森林間における利用資源数の違いは、利用していた植物種数の違いをほぼ反映していると考えることができます。以上の結果から、土丸尾地区のような林縁植生の豊富な落葉広葉樹主体の林には、蝶の利用可能な植物が質的にも量的にも多く存在していると考えられ、そのために蝶の種数や個体数が多くなっているのだと考えられます。

図2
図2 富士北麓の7ヵ所の森林蝶類群集における成虫の利用資源数と総平均密度の間の関係(P<0.01)

 1996年の調査では、7ヵ所全体で1年間を通じて計8科72種1,274個体の蝶類成虫を確認することができました。この中には富士山の蝶相を特徴づける代表的な種や絶滅が危惧される貴重な種も多々含まれておりました。例えば、隣の神奈川県では既に絶滅してしまったヒメシジミやアサマシジミ、同じく同県で絶滅可能性の高いヘリグロチャバネセセリ、コキマダラセセリ、ヒメシロチョウ、スジボソヤマキチョウ、ミヤマカラスシジミ、ホシミスジ等が含まれておりました。また、静岡県の絶滅危惧種であるムモンアカシジミ、ヤマキチョウ(図3)、ヒョウモンチョウ等も含まれておりました。特筆すべきことは、これらの隣県で絶滅したか絶滅可能性の高い種群の中に、ヒメシジミ、スジボソヤマキチョウ、ホシミスジ等、富士北麓ではまだ場所によって個体数の多く見られる種が存在していることです。また、生息地が激減し全国的な絶滅危惧種になってしまったチャマダラセセリ(図4)も富士北麓が最後に残された数少ない生息地の代表格として認知されています。以上のように富士北麓の自然環境は、現在でも多くの貴重な要素を多々含んでおり、これらを失わないためにも現況の自然を保全・維持していかねばならないと思います。

 現在、動物生態学研究室では富士北麓の昆虫類以外にも、哺乳類、鳥類について調査研究を進めております。数年後には、これらの研究成果についてもご報告できるものと思います。いずれにしましても、我々はこれらの研究成果を基にして、最終的には富士山の自然環境の総合的な保護・保全策について提案していきたいと考えております。

(きたはら まさひこ)

図3
図3 アカツメクサで吸蜜中のヤマキチョウの雄(富士山の蝶相を特徴づける種の1つ)
('97年10月10日、環境科学研究所圃場にて)
図4
図4 交尾中の全国的絶滅危惧種チャマダラセセリ
('98年5月7日、富士北麓の植林地にて)

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